代替え案なき否定はカッコ悪い

 

安倍のなんとか政権が続いてる昨今ですが、ひとつ言いたいことがあるんです。

なぜ野党のポスターは、あんなにカッコ悪いんでしょうか。

 

安倍政治をストップさせるとか、NOを突きつけるとか、増税反対とか書いてますけど、これ全部あれじゃないですか。

 

単なる否定でしょ

 

別に否定するのは自由だし、大いに結構なんですが、自分のポスターに書くのがそれだと萎えますね。見てるこっちとしては。

日本列島NEO改造論みたいな、自分の政策を堂々と書けばいいじゃないですか。俺はこうしたいんだって主張を。

それをしないで晋三さんありきってところが最高にカッコ悪いです。自分が先にこないんかいと。

 

☆☆☆

 

分かりやすいところで野党議員のポスターを出しましたけど、こういうことって日常に溢れてますよね。代替え案なき否定って。

例えば仕事でも、やたらと否定する人っているじゃないですか。それはダメだみたいに。

んで、「じゃあ◯◯さんのこれについての意見を聞かせてください」っていうと、特にないんですよ。現状のこれに対してNOって言ってるだけで、自分の意見なんてなにも持っちゃいないんです。

 

こういうのはカッコ悪いっていうか、単純に腹立ますけどね。なんのアイディアもないなら黙っておけよと思います。

 

でもよくあるでしょう。人がなにかについて不満を言っていたときに、「じゃあ◯◯さんならどうしますか?」って聞いて、明確な答えが返ってくることなんて稀です。普通はないんですよ。

あのラーメン屋の接客が気に食わないみたいな話になって、「じゃあどんな接客がいいですか?」って聞いたとき、「俺ならこうする」って言われることはそうそうないんです。(まあここは100%ボケるとこですけど)

 

僕はこの代替え案なき否定が最高に嫌いです。代替え案がないのなら、邪魔にならないように黙っておいたほうがいいでしょう。

単なるNOに価値なんてないんですよ。ただの否定は人の心を動かさないから無価値なんです。

 

たださすがにあれですよ。「明日国民全員でくじ引きして、5分の4の確率で死んでもらいます」なんて法案が成立しそうになったら、全力でNOって言いますよ。とにかくその法案だけはダメだ、やめろって。

でも現実的にそんなことはないじゃないですか。ただの否定をする前に考える時間はある。だからその自分の考えを言えばいいんですよ。

 

中学生だか小学生だかの頃に、やたらとみんなが作文で、自分の意見を持てる大人になりたいって書いてたことを覚えてて、なんでそんなこと書くんだろ?って不思議でしょうがなかったんですよ。

自分の意見を持つことなんて当たり前で、なんなら他人の意見を持つことなんてないと思ってたんで、わざわざそれを宣言する意味が分かりませんでした。

でもいざ大人になってみると、自分の意見を持ってる人って少ないんですよね。

 

自分の意見を持ってなくてもいいんです。でもその状態で否定だけするのはカッコ悪い。そういう話でした。